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Franco et O.K. Jazz (1956-89)

'Celi Bitshou', Francis Bishoumanou, bass & vocal(1966-72)
Josky Kiambukuta, Londa, vocal(1973-)
Lokombe Ntal, vocal (1980-)
'Simaro' Lutumba Ndomamueno 'Masiya', guitar (1961 & 1963-)
Flavien Makabi Mingini, guitar (1976-)


Artist

CELI BITSHOU

Title

SOUCI YA BOLINGO


bitshou
Japanese Title

国内未発売

Date 1995?
Label A.P.L DIFFUSION CBC 32/ SONODISC CD 81515(FR)
CD Release 1995
Rating ★★★
Availability ◆◆


Review

 フランコのO.K.ジャズは33年の歴史のなかで、何度もグループ存亡の機に出くわしているが、最大の危機は設立10年目にあたる66年に起きた“クァミー・ショック”だろう。

 この事件については再三ふれているので要点のみ記せば、O.K.ジャズを辞めてアフリカン・フィエスタへ移籍した歌手のクァミーが、新たに起ち上げたオルケストル・レヴォルシオンにO.K.ジャズのメンバー6人をごっそり引き抜いていったという事件である。その6人とは、歌手のムジョス、リズム・ギターのブラッツォ、ベースのピッコロ、コンガのデスーアン、サックスのムセキワ、トランペットのジャリであった。

 アフリカン・フィエスタ時代に'FAUX MILLIONNAIRE'「金持ちの偽善者」という歌でクァミーがフランコを痛罵したのをきっかけにふたりは険悪な状態になっていただけに、この大量離脱はフランコにとって心理的にも相当なダメージだった。

 壊滅的な打撃を受けてフランコはグループ建て直しのためにキンシャサの兄弟都市ブラザヴィルへ行く。そのときスカウトしてきたのが、十代の歌手ユールー、コンガのドゥ・プール、そして“セリ・ビチュウ”Celi Bitshou こと、ベースのフランシス・ビチュウマヌー Francis Bishoumanou だった。ビチュウは、O.K.ジャズの兄弟バンド、オルケストル・バントゥからの参加だった。

 かれらより早く(64年といわれる)ブラザヴィルよりO.K.ジャズ入りした人物に歌手のミシェル・ボーイバンダがいる。60年代末から70年までにサックスのヴェルキスと歌手のヴィッキーという中心メンバーが脱退したことで、70年代はじめのO.K.ジャズはかなりの部分、かれらブラザヴィル組に負うところが大きかった。71、72年発表音源からなるO.K.ジャズの編集盤"LIKAMBO YA NGANA"(SONODISC CD 36581)には、サブタイトルが'A l'epoque de Youlou, Boyibanda, Bitshou'“ユールー、ボーイバンダ、ビチュウの時代”とあるのがなによりもの証拠。

 70年代はじめのO.K.ジャズ・サウンドの特徴を要約すれば、アコースティックな質感のシンプルでゆったりとした演奏、淡々と綴られるヴォーカル・ハーモニー、パーカッションとホーン・セクションの後退、メタリックだが温かい響きをもつフランコのギターということになろうか。けっして派手ではないがいぶし銀のような深みを蔵するこの時期のO.K.ジャズがわたしは大好きである。フランコ以外にきわだったスターがいなかったぶん、ギタリストとしてのフランコがもっとも輝きを放った時期であったこともつけ加えておこう。

 さて、ビチュウである。かれがO.K.ジャズに提供した作品は、ざっと調べたかぎりでは前出の"LIKAMBO YA NGANA" に1曲、"1968/1971"(AFRICAN/SONODISC CD 36529)に1曲、"1970/1971/1972"(AFRICAN/SONODISC CD 36514)に2曲、の計4曲が復刻されているにすぎない。
 "1970/1971/1972" 収録の'MOKOLO YA PASI''NAZALI KITOKO MINGI' もなかなかの名演だが、代表作はなんといっても"1968/1971" 収録の'INFIDELITE MADO' だろう。このラヴ・ソングは、シマロが書いた'MA HELE' とともに、67年末にヴェルキスが一部のメンバーとフランコに秘密にレコーディングしたのが発覚して長くおクラ入りになっていたいわくつきのナンバー。ネタが尽き苦しまぎれにレコーディングされたこれらの曲が、弟バヴォンの交通事故死でスランプに陥っていたフランコに立ち直りのきっかけを与えるヒットになろうとはだれが想像しただろう。

 ブラザヴィル組は浮気なヤツらが多かったようで、67年にはボーイバンダがクァミーのレヴォルシオン参加のため一時O.K.ジャズを抜けているし、先にふれた67年末にはじまるヴェルキスの違反行為にもビチュウとユールーが噛んでいた。そして、70年、ギターのファンファンを中心とした秘密のレコーディングが発覚したのを機に、72年、ついにビチュウはユールー、ファンファンとともにO.K.ジャズを脱退した。かれら3人はいったんヴィッキーのオルケストル・ロヴィに身を寄せるも74年には新グループ、オルケストル・ソモソモを結成。しかし、このグループも長くつづかず、ビチュウはヴェルキスのオルケストル・ヴェヴェに参加した。

 ビチュウについてわかるのはここまででそれ以降の足跡はまったくわからない。これは想像だが、モブツ大統領が推し進めた“真にザイール的なものの回復”をめざすオタンティシテ政策によって、ユールーやボーイバンダとおなじく70年代後半にはブラザヴィルへ帰らざるをえなくなったのではないだろうか。

 それからおよそ10年後の84年、ビチュウの名まえは意外なところで顔を出す。
 80年からヨーロッパへ移住したフランコに代わってキンシャサで留守を預かっていたのはシマロ。そのシマロが、ブラザヴィルに完成したばかりの最新機材を備えた録音スタジオIADで、キンシャサ在のO.K.ジャズのメンバーらとソロ作のレコーディングをおこなった。このセッションからシングル・カットされた'MAYA' は大ヒット。リード・ヴォーカルに抜擢されたのが当時23歳の新鋭カルリートであった。マエストロ・アライ氏が“ビロード・ヴォイス”の持ち主と絶賛したかれをシマロに紹介した人物こそビチュウなのである。

 離ればなれになってもふたりずっと友情を温めていたのだ。本盤は、シマロがそんなビチュウの友情に報いる意味で、全面的に協力してつくり上げられたアルバムなのではないかとみている。CDリリースは95年とあるが、オリジナルのリリース年はよくわからない。だが、音の感じからほぼ同時期と思われる。7曲すべてビチュウのオリジナルで、アレンジはシマロとビチュウの共同であたった。
 ヴォーカルはビチュウのほか、ジョスキーとロコンベ、リズム・ギターはシマロ、そしてTPOKジャズではベースを弾いていたフラビアンがソロ・ギター担当というように、すべてシマロの人脈で固められている。

 シマロがフランコの親族からTPOKジャズの名称を剥奪されて、新バンド、バナOKを旗揚げした94年直後のレコーディングと思われるが、事実上は“ビチュウとTPOKジャズ”の演奏といってもいいだろう。ただしビチュウ在籍時の繊細なO.K.ジャズ・サウンドの再現を期待すると当てがはずれる。どちらかというとフランコ死後のTPOKジャズに特徴的な、陽気でカドの取れたアップテンポな演奏に雰囲気が近い。第2世代にはお約束のホーン・セクションもちゃんと入っている。ヴォーカル・パートではジョスキーのほうが目立ってしまっているものの、後半のセベン・パートに突入するやビチュウと思われるミョーにハイ・テンションの気合いが聞こえてくる。「よっぽどうれしかったんだな」と微笑ましくなった。

 シマロのバックアップのおかげで、どの演奏もそれなりによくまとまってはいるものの、ユールーの'KAMIKAZE' に対抗したかのような'NINJA' という奇抜なタイトルの曲があるのとはうらはらに、これといった特徴もなく全体として仕上がりが平坦な印象を受ける。
 英国スターンズのショップで、セール品として捨て値で売られているのを発見したときには、すこし悲しい気分になったと同時に「さもありなん」と納得してしまった。熱狂的なシマロ・ファンむけ。



(1.4.05)



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by Tatsushi Tsukahara